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 オーディション企画

一条 × 天下井 ( 3/10 ~ )

天下井 良弥

暖かい日だった。麗かな日差しが窓から差し込み、外に出るにも遜色ない。しかしそんな外の陽気なぞ自分には関係ない。目下、直面中の世紀の難問に震えているからだ。自室の片隅で頭を抱え蹲る、その視線の先には使い古されたキーボードとアコースティックギター。この情景を見た誰もが、彼が音楽関連の何らかのトラブルに見舞われたと思うことだろう。その推測は半分が正解で、半分は不正解だ。何故か。
「 ……人前で演奏するって、どうやったらいいんだ 」 
そう、それはアーティストとして生業を立てていこうとする者が持つには、あまりに不可解な悩み。天下井良弥は、生まれてこの方観衆の前で自らの技量を披露してくることがなかったが故に、その悩みを持つに至ってしまった。即ち________人前で演奏が出来ないという、あってはならない悩みを。
こんなことを馬鹿正直に某自分をスカウトしてくれた女社長に言おうものなら、どう返されるだろうか。笑顔でトランクケースと片道分の旅費を渡されるかもしれない。折角此処まで来て、(人からすれば小さな悩みかもしれないが)大きなカルチャーショックからくる挫折の壁を乗り越えたというのに、この始末。そんな結末、実家の祖父母が泣いてしまう。それだけはいけない、何とか現状を打破するため、何かしなければならない。でもその何かって何だ。どうしたらいいんだ。ぐるぐる巡る環状線のような思考は、どんどん戻れないところまで深度を深めていく。そうなった時、どうすればいいか。
「 ……. 取り敢えず、団子でも食べて落ち着くか 」 
天下井良弥は、諦めの早い男でもあった。いそいそと楽器をケースに詰め直し背負ってしまえば、堂々巡りの思考を早々にシャットアウトして部屋の扉に手をかけ、一人廊下へ。ダイレクトに浴びた日光に、思わず呑気な欠伸が出た。

一条 御幸

(課題を出される際に日比谷姉弟(主に彩さん)に言われたことを思い出す。『君はモデルである自分よりも発言を、何かを発信する自分に重き置いているね。それはタレントとしては素晴らしい事だし今後も続けて欲しいことだけど、今の君はモデルでもあるんだから。蔑ろにしてはいけないよ』集められた練習生を前におちゃらけたように笑っていた彼女はここでも変わりなかった。彼女の言っていることはもっともだ。自分はあくまでも”モデルタレント”としてここにスカウトされたのだ。顔や身体果ては意識までもが商売道具であるモデルよりも専ら配信ばかりしている自分の行動がいけなかったのだろう。しょうがない。受け入れるしかない。ここでは自分はまだ練習生でしかないのだから。自分のやりたい事を制限される息苦しさを溜め息として吐き出して無理やり切り替えるしかない。)
「あーぁ…やるしかないかぁ」
(1度伸びをすると、自身の身長よりも少しだけ大きい鏡に向き直る。ポーズや表情を繕っていくがなかなか納得といくものがとれず、先に飽きが来てしまった。ウィッグもメイクも服装だって一条が望む”かわいい”を身に着けているのに。まだ再開して10分も経っていないのにおかしいな、独り言ちるがそれは部屋に吸い込まれるだけだ。このまま何もやらずに無益な時間を過ごすのは流石にマズいと思ったのか、軽い運動と気分転換にと校舎内を探索に出ようと自室を出て廊下に出る。カーテンで締め切っていて分からなかったが日差しが心地よい。日向ぼっこでも出来たら気持ちいな、なんて呑気なことを考えながら歩みを進めると、少し先の方に同じ秋暮のアーティスト枠の天下井を見つける。彼も彼で『課題』の事で思い悩んでいるのか顔色が芳しくなさそうだ。自分の事ではないが同じチームである彼が辛気臭いのは嫌だな。)
「やっほ。良弥くん。……行き詰まってるの? 」
(彼に向けて軽く手を振り微笑む。彼をよく見れば楽器ケースを背負っていたが、もしかしてこれから演奏をする予定でもあったのだろうか。もしそうなのであれば申し訳ないのでできる限り手短に終わらせよう。)

天下井 良弥

ずっと下を向いていたからだろうか、首がやけに重たく感じる。小首を傾げながら摩るように首元に手をやり肩を回していると、離れた所から軽い調子の声がかかる。アサギに来てからすっかり馴染んだその声は、弾む様子も合間って『彼』の持つ愛らしい容姿に良く似合う。
「 あ、一条さん。奇遇ですね 」 
此方に来るなり口にしたのは、他でもない悩みの種のこと。さながらエスパーだ。隠すこともなく首を縦に振った後、距離を保つのも悪いと思い歩みを寄せる。特に高いヒールを履いているわけでもない時には、本の数センチ低い身の丈が此方を見上げるようになるものだから、あまり心臓には良くないのだけれど …… 今日はそういうわけでもないらしい。ばっちりと可憐な衣装に身を包み、今から撮影OKですと言わんばかりの念入りな準備が入った装いを見るに、彼の方にも何かしら事情がありそうだと悟った。そこから冒頭の会話を鑑みるに、きっと彼も何かしら課題について考えを巡らせていたのだろうと思い当たるまで、そう時間はかからない。
「 もしかして、一条さんも何か悩みがあったり …… あ、も、勿論違ったら俺が馬鹿で勘違いしていただけなんで! ホント、気にしなくていいんですけど! 」 
軽い気持ちで口にしたが、その後直ぐに浮かんだのは自分のようなちゃらんぽらんと同じにするとは何事かというお叱りの言葉。そうだ、一条さんは既にモデルとしてもタレントとしても実績のある、50万人のフォロワー …… だっけ?何だかよくわからないけれど、沢山の人に支持されているようなすごい人なんだから、軽率に気持ちを推し量るなんてことして裏目に出たらやばいだろ。内心再び自省思考に入りそうになりながら、慌てて訂正を入れて心配そうに眉を下げたまま様子を伺った。

一条 御幸

(声を掛けたことにより下を向いたままだった彼が顔を上げこちらを認識した後、わざわざこちらに近付いて来てくれた。こういうなんでもない気遣いができる子は可愛がりたくなるよね。姿勢と前髪のせいで見えていなかった彼の目元は普段よりも気むずかしげに眉間にしわを寄せている。癖になったら大変なのに。)
「ね、名前。一条じゃなくて御幸でいいよ。ボク、堅いの苦手なんだよね」
(未だに名前ではなく苗字で呼んでくる彼は年下の後輩然とした接し方してくれる。今まで後輩らしい後輩がいたこと無かった自分にとって彼は貴重だが、慣れていない接され方をされると、どうにも彼には先輩として正しい事を教えねばと無駄に力が入ってしまう気がする。正しいも何もまだ20年としか生きていない自分には何が正しいのか人様に教えられる気はしないのだが。自分の質問に言葉なく答えてくれた彼はその後こちらが口を挟む間もなく、いきなり自分を卑下し始めたので正直驚いてしまった。馬鹿で勘違いって自分の事をそう簡単に言うなよ。自分が一番自分を大事にしないとダメなのに。眉を下げてこちら機嫌を損ねてないか心配そうに伺っている彼に今以上に距離をつめると、彼の眉間に両手を添えて優しく揉んでいく。今日はヒールを履いていないから思ったよりお互いの顔の距離が近くなってしまったが、見た目はどうあれ中身は男同士だし問題ないだろう。)
「んーん。大正解だよ。ボクも悩んでたから、良弥くんも悩んでるように見えて声をかけたの。…だから、真っ先に自分を卑下するのはやめてね。」
(またいつもの癖で、コメンテーターでもなんでもないのに自分の言いたかったことを発言してしまった。内心でやってしまったと自身に対して毒づく。)

天下井 良弥

「 あ、すんません。そう言ってもらえると有り難いです。俺もそんなに得意ってわけじゃないので、いちじょ …… えっと、御幸さんもそうなの、ちょっと安心しました 」 
指摘をされて、安堵の息が溢れた。別に年上や目上の人に対して取るべき態度を取ることが面倒だとかそういうわけではない。寧ろ、粗相がないか心配になってしまって、言葉選びに苦労してしまうので不得手なのだ。だからこそというか、気を遣ってくれているのだとしても、相手の方から気軽に声をかけるよう手を引いてくれるのは僥倖だった。好意にわざわざつっけんどんな対応を返すことはない。へらり、平凡なりの愛想を浮かべようとした時、不意に彼の細い指先が此方の顔に向かって伸ばされる。目を瞬かせている間にも、どんどん近付く。近付いて、そうして、当然その先にある幾重かに重なった皮膚という壁に触れる。誰かに真正面から顔に触れられるなんて体験そのものが思い出せる限りの引き出しには見当たらない。それも、見てくれだけならこれまでの人生でも類を見ないほどの『少女』に。
嗚呼、しっかりしろ、天下井。美女と野獣の話を思い出せ。そうだ、人を外面で判断してはいけないのだ。男こそ、中身で見なければ。けれど、ええと、中身までしっかり出来上がっている人相手にはどうすれば良いのだろう。徐々に熱を帯びる顔を隠すように、何か真面目なことをしっかりと伝えてくれていたような眼前の彼に何度も頷いた。
「 あっ、有難う御座います! あの、その、俺 …… 良ければッ! 御幸さんの力になれるかは分かんないんですけど、一緒に課題 …… どうすればいいか考えたいなって ……. !」
普段は全くの寒がりの癖に、今はこんなに暑がりになってしまう。現金な身体だ。だがいつまでもこんなだらしないところを見せるわけにはいかない。急いでこの場を脱するため、回らない頭を必死に使って考え出した唯一の道。それは他でもない課題そのものだったが、取り敢えず離れてもらうためには今の俺の話から変わっていく新しいテーマを導入するしかないだろう。半ば懇願の意味も込めつつ、赤い顔の青年はお願いします!と勢いよく手を合わせた。

一条 御幸

(苗字を呼びかけていたが最終的には下の名前で呼んでもらえたのだ、まだ呼び慣れていないため間が生まれたりするが今は一先ず及第点でいいだろう。彼の前後の言葉では自分が彼と同じ様に悩むことのない人間だと言われたみたいだ。誰だって悩んだりするものだろうに、彼の中での自分がどういう扱いになっているか些か気になる。バランスを崩さない程度にわざと眉を吊り上げて唇を尖らせムッとした表情をする。我同じ人間ぞ。)
「ボクだって人間なんだから悩んだりするよ。」
(彼がしきりに頷き頭を動かくすので、彼の眉間を揉みくちゃにしていた両手を渋々離すと、近過ぎた距離を2歩下がって離す。まだ完全に解しきれていないのが心残りだがこれ以上は彼が持たないだろう。色んな意味で。前々から自分のことをを女の子のように意識してるようだったから試しに接触してみたら、初心でからかいがいのある反応を返してくれた。林檎のように赤く染った顔を見てこの感じでは首まで赤くなってそうだなと思いクスリと笑いがこぼれる。)
「……ほんとうに? じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。…良弥くんから先にしようよ」
(目を瞬かせてきょとんとした表情を浮かべてから、彼を天下井を見遣る。まだ彼の顔色は甘く熟した林檎の様に鮮やかな赤色をしている。が、いつまでも赤面を晒し続けるというのは男にとって矜持に関わることだろう。なので、初回サービスという事で一先ずは彼をからかうのはやめて話に乗ってやろうではないか。そう思案し終えるとニコリお手本のような綺麗な笑みを浮かべて、お悩み相談しよ?っと付け加え)

天下井 良弥

少しムッとしたような表情をしながらも、漸く離してくれた手と顔の距離に先に意識が行く。良かった、何とか解放されたようだ。心なしか揉み解されて柔くなった眉間を自身の指先でも試すように何度か突きながら、去り際に彼が口にした言葉が遅れてやってくる。人間なんだから、悩む。当たり前のことなのだけれど、自分にとっては何だか新鮮な定義のような気がした。そう言われてみれば、天下井にとって、アサギは異空間だったといえる。其処にある物、其処に居る人が、自分と同じ人間だと認識してはいなかったのだ。一度感じた壁があまりに高かったせいか、皆が当たり前のように自分よりも優れていると思っていた。だからこそ、ポジティブ・バイアスとでもいうべきか。俺はチームメイトの御幸さんにも、同じように過度な期待を持っていたのかもしれない。それもまた、反省点だな。第二の課題は、歪んだ視力をただすことのようだ。今まで見てこなかった分ぽこぽこと増えていきそうになる課題に一旦蹴りをつけるためにも、折角了承が得られたのだ。しっかり向き合わなければ。わざとらしいくらいに美しい眼前の彼に、正しい呼吸と平常心を持って笑みを返した。
「 ……っす、まあ、言い出しっぺですしね。取り敢えず、ある程度スペースが取れて動いても問題ない部屋に …… ってなると、この近くだとダンススタジオがいいかな。 率直に言うと俺の課題って、演奏そのものに関わることなんで、楽器を広げられた方がいいんすよ 」 
どうやら御幸さんは下手に気を遣われるのもあまり好まないようだが、まあちょっとばかし頭を下げても許されるだろう。そう癖になってるような小さな会釈を交えながら一番槍を買って出ようとするが、どうにも場所が悪い。路上で演奏だってしていたとはいえ、流石に廊下を陣取るのは他の練習生の迷惑にもなりかねない。それに、立ちっぱなしにさせるなんてそれこそ失礼だろうし。少し悩むように頬を掻けば、思い当たる適切な移動先を考える。確か直ぐ側に空いている部屋があったはずだ。そうと決まればと、薄らとした記憶の糸を手繰りながら提案した。

一条 御幸

(目の前の自称省エネ好青年改め、一条お墨付きの玩具はもう、通常通りの顔色と呼吸に戻ってしまった。欲を言うならもう少しだけからかいたかったがこれ以上はお互いの『課題』があるので我慢だ。年下の彼の悩みから聞こうとは思ったが、アーティストの悩みなんて果たして自分が解決することは出来るのだろうかと一抹の不安を覚える。もちろん悩みは聞くだけでもスッキリする人もいるが彼がそれに当てはまるとは限らないし、なによりせっかく悩みを打ち明けてくれようとしているのに解決できない以前に、専門用語が飛び出して来て理解が追いつかない可能性だってあるのだ。これは非常にマズい。かっこいい年上作戦が出来なくなってしまう。なんて茶目っ気のある事を考えながら)
「へぇ。演奏に直接関わることか……。なんだろう、畑違い過ぎて初歩的な事しか浮かばないや。」
(自分が思いつく限りでは、譜面に指が追いつかない、譜面が覚えられない、彼の身長なら問題ないと思うがペダルに足が届かない等、児童向けのピアノ教室かと疑ってしまうくらいのものしか出てこない。これらを口にしてしまうのはプロとしての実力や資格を持ちえている彼に対して失礼極まりないので思い浮かべるだけに留める。
「ダンススタジオに行こっか。良弥くん、案内お願いしてもいい?」
(普段あまり使わないので存在も場所も覚えていなかったが、彼が言うにはこの近くらしいのでそこにしようと頷き彼の提案にのる。生憎場所が分からないので一条は彼の後ろを着いて回るしかないので、彼に先導してもらえないかと首を傾げてお願いをする。恥ずかしながらアサギに来てからは、合同練習や食事以外は、ほぼ部屋にこもりっぱなしだったので、あまりこの校舎や近くに何があるか把握していないのだ。)

天下井 良弥

「 ……多分、御幸さんが想像しているより音楽家らしい問題じゃないんですけどね 」
その呟きは小さなもので、別に聞き取れなくても良いような独り言。真っ当に口にしたら笑われてしまうような不思議な課題なのだから仕方ない。でも誰にも相談せずに抱え込むというよりはよほどマシだ。 そう自分に言い聞かせた。「 勿論、任せてください。こう見えて俺、結構道覚えるの得意なんですよ 」
道案内を頼まれれば、任されたとにっとした笑みを浮かべる。モデルタレントを志す彼には到底及ばないようなただの18歳の青年の自然体の笑顔だが、天下井からしてみれば少し、いや、妙に誇らしげな顔だった。別に日々校舎内を隈なくチェックしているというわけではない。このように部屋の状況を目敏く理解していたのは、彼自身が言うように土地勘の取得が得意であるということが一因だった。生活圏であった生まれ故郷が入り組んだ場所にある彼にとって、何処に何があるのかを理解すること、目的地に辿り着くためのルート構築は生活していく上で必要不可欠なもので、自然と培われていた。それはそれとして、年上でいつもされるがままの彼を先導することが出来るという当人からすれば貴重な体験。僅かばかりの自尊心が、ここぞとばかりに顔を出したのだ。
「 じゃあ、行きますか …… あ、足元気をつけてくださいね。転んだりして、折角の身体に傷がついたら大変ですし 」
さあ歩き出そうとした時、不意に彼の足元に目が行った。少なくとも自分が履くことはないであろうヒールのついたその靴は、モデルでないただの男の目線から見ればリスクそのものに映ったのだろう。無意識の内に、手を差し出していた。あまりに自然に手を差し出したモノだから、自分自身でもその行為に対して深い意味を見出していなかった。ほんのりと頭の片隅で、彼はモデルなのだから、と言葉が浮いたくらいで。

一条 御幸

(彼がなにか呟いたのは分かるが、自身の耳ではうまく聞き取れなかった。きっと今ここで聞き直してもなんだかんだお人好しの彼は答えてくれるだろうがそれは野暮だから良しておこう。それに悩みに関係する事だったダンススタジオに着けば自ずと話すだろう。)
「頼りにしてるね」
(年相応の笑顔はどこか得意げで一条にはそれが可愛らしく映ったのだ。頼りにしているのは本当だが、ここまで素直に態度に出されるとは。彼の表情が幼子みたく微笑ましくて、口元に手を軽く添えてふふっと笑っていると、彼が自然な動作で手を差し出していた。はて?と内心不思議に思い彼を見つめる。転んだり、身体に傷がついたら大変か。つい彼の言葉の真意を考えてしまう。)
「優しいんだね。良弥くんは…」
(ボクでも女の子扱いしてくれるんだ。そう続けて出ていきそうになった言葉を無理やり飲み込んだ。彼は自分が履いているヒールを見て、善意で手を差し出してくれたに過ぎない筈だ。余計な事を考えるのはやめよう。彼に他意はないしこんなことで感傷的になってはいけない。今身につけているのは、私物の中で1番履いている頻度が高い白のショートブーツのヒールは5cm。撮影やモデルウォークの練習時に使う物より低いし、建物内なので自分にとって転倒するリスクは低いが、それが彼の目に危険に映ったのならばせっかくだからその好意を受け取ろう。生憎と自分は造花だが、彼に花を持たせるのもいいか。)
「エスコートお願い。」
(そう言うと彼の手に自分の手を添えた。彼の自分よりも大きくて分厚い手はピアノを弾くのにいい大きさだと思うし、こころなしか指先の皮が厚くなっているのでギターもしているのだろう。努力の手だな。この手にエスコートされるのなら悪くないなと満足気に身を委ねた)

天下井 良弥

手を取りながら彼が口にしたのは、間違いなく己を肯定する言葉。反射的に『いえいえ、そんなこと』と首を振りそうになるが、それこそ彼の厚意を無碍にする。段々、受け入れる者の持つべき姿勢の難しさと大切さが分かってきたような、そうでないような。もやもやとした気分は決して黒い霧ではなくて、例えるならば縁日で見る着色料を鮮やかに感じさせる綿菓子のような甘ったるい照れ臭さ。誤魔化すように彼の顔ではなく喉元に目を滑らせた時、ふと、彼の喉が息を飲んだのが見えたような気がした。気の所為だろうか。でも、わざわざ口に出すには、見返した彼の顔は満足げな少女そのもので。
「 ……はいはいっと、任されましたよ 」
後一歩、踏み込むにはまだ勇気が足りない。自分がそうであったように、人にはそう簡単に曝け出せない壁がある。其処に無理やり大穴を開けて溢れてくるものが何なのか、自分の手で掬い切れるものなのか。残念ながら、彼はそれを考えずに大槌を振り上げるほどの優しい愚かさは持ち合わせていなかった。手を引きながらゆっくりと道を行く中、少しだけ自身の手のひらに収まる彼の手を握る力が強くなった気がした。
「 着きましたよ 」 
数分ほど歩いた先。空室のプレートが下げられたその部屋は、施錠もされていない扉と共に此方を出迎えた。無遠慮に扉を引くと真っ先に目に飛び込んでくるのは、艶やかなフローリングと己を取り囲む一方の壁に張り巡らされた鏡の数々。自分達のものとはいえ少し竦むような思いがするのは、元来の人見知りが根っこにあるからだろうか。お先にどうぞ、と道を譲るように傍に控えつつ、背後の楽器を背負い直した。

一条 御幸

(ほんの一瞬だけ喉元もっと言えば喉仏を見られたような気がした。あまり見られたくない部分だったので必要以上に視線に敏感になってしまっている。息を飲むのが彼に気付かれてしまっただろうか。いや、相手に悟られようがどうだっていいか。踏み込んでこなければそれだけでいい。彼の握る手の力が強くなった気がするがそれに応える気は今の自分には無かった。そうこうしているうちに、彼のエスコートのおかげで転倒もアクシデントもなく安全にダンススタジオに到着した。)
「ありがと。……ちょっと埃っぽいから換気するね。良弥くんが相談したり演奏する時には閉めるから」
(最後までエスコートしてくれたお礼を告げると、先に部屋に入りショートブーツを脱いで扉の付近に置く。ダンススタジオでは土足厳禁になっている事が多かった記憶があるのでそれにならって一応脱いでおいた。足の裏が汚れるのも厭わずにぺたぺたと足音を立てて部屋を歩き全てのカーテンを開けてから1部の窓を開けて換気をする。埃が陽の光を浴びて眩しいと感じる程に煌めいてる。正面の壁には1面鏡が貼られており、ヒールの魔法が解けた自分と天下井の姿が映っていた。羽織っているジャケットは薄手のものでポケットの中には最低限の化粧直しとハンカチスマホしか入れていないのを両ポケットに手を入れて確認する。まぁ、何とかなるか。それに同じチームの子だからすっぴんを見せても口封じさせれば問題ないだろう。)
「良弥くん、エスコート上手だったね。驚いちゃったよ。良くしてたの?」
(彼のエスコートは特にこれと言った問題はなく、合格点をあげたいくらいには上出来だった。そう上出来だったのだ。初心な彼にして妙に手馴れているようでそれが不思議でしょうがなかった。鏡越しに彼を見るのをやめてくるりと彼の方へ方向転換をして身体を向ける。2cmしか変わらない彼が先程接近した時よりも近くに感じた。)

天下井 良弥

するすると丁寧な所作はそのままにスタジオの中へと入っていく背を横目に、自分も見様見真似で靴を脱いだ。正直生まれて初めて入るような場所だった。芸能のげの字もない所から魔法のように連れてこられた彼からすれば、そんな中あたかも自分の勝手知ったる庭だと言わんばかりの様子の一条には憧憬の念を抱いていた。別にモデルになるつもりはないけれど、でも矢っ張り格好いいな、そういうところ。先程までとは相反した妙な気持ちに首を傾げつつ、倣うように彼の靴の隣に揃えて置いた。一言ことわってから換気をしに向かった彼に感謝と了解を手短に口にしながら、己も後を追うようにしてフロアに上がると慎重に扉を閉めた。ぺたぺたという小さな足音、部屋に舞う偽物のダイヤモンド・ダストの輝きに思わずつられるようにして目を細めた。
「 え、エスコート? ……ああ、さっきの案内のことですか 」 
窓も開け終わり、ひと段落着いたのか此方に話を振ってきた彼に少し素っ頓狂な声で返しながら楽器のケースを床に置いた。あまり衝撃を与えないように気を遣ったつもりだが、それでもごとりという無骨な音が辺りに響く。中に入れてある普通より少し鍵数の少ないキーボードとアコースティックギターを傍に取り出しながら、褒められ満更でもない気を誤魔化すように鼻の下を擦った。
「 良くしていた、というよりは …… されていた、が正しいんですよね。小学校の頃、よくしてくれた先生がいたんですけど。俺、引っ込み思案だったんで、皆の輪の中に自分から入れなかったりするといつも置いていかれちゃったんです。けど ...... 」
そう。そういう時、声を上げることも手を伸ばすことも出来なかった俺の手を引いてくれていたのは、いつも先生だった。放課後、秘密だよと言って人差し指に口を当て、もう片方の手で俺の手を引いて連れて行ってくれた先が、俺の今に繋がっている。そんな過去の光景に想いを馳せながら、するりと塗装の剥がれたキーボードの表面を撫でた。

一条 御幸

(ずっと背負っていた楽器ケースようやくを降ろした彼は、自分の質問に対して少し間の抜けた声で応えてくれた。「うん」と頷くとジャケットのポケットに手を入れたままの状態でしゃがみ込むとお尻を床につけ脚を少し伸ばして、所謂三角座りの体勢になる。こうすることで手を入れたまま髪を巻き込まずに座ることが、できる回数が多い気がするのだ。ちなみに今回も髪を下敷きにすること無く座れた。膝に顔を乗せて楽器を取り出す彼の動きをただ見つめる。出てきたのはキーボードと種類はよく分からなかったがギターが出てきた。よく見るとキーボードの方は塗装が剥げていて年季が入ってる様だが、どちらも手入れは良くされている様に見える。この2つは彼にとっての商売道具でもあるが、きっと大事な物なのだろう。)
「 じゃあその先生が良弥くんにとっての恩師って人なのかな。…そういうのなんか、いいね。」
(過去の情景を思い出しながら語る彼の表情は柔らかく、それだけで先生とのやり取りが暖かな記憶として彼の心に残り続けているのだろう。穏やかな気持ちで過去を懐かしむ事が出来るのならそれに越したことはない。最初彼が輪に入れなかったと聞いた時は嫌な想像をしてしまったが杞憂に終わり安心した。彼の少年時代のおすそ分けを貰うも自分は微笑むしかなかった。自分には生憎とその手の話のネタも無ければそれに同調できるほどの想いもないのだ。)
「 …そろそろ良弥くんの悩み事聞かせてもらってもいい? 」
(『 けど…… 』と、彼の話は続きがあったかもしれないが自分たちには時間が無いので、急かす様で悪いがさっそく本題に入ってもらう。これ以上自分の心の柔らかい部分を突き刺してくるような彼の思い出話を聞いてしまったら、一条としてではなく春として彼に接してしまうのは避けたい。話を遮ってしまったかもしれないので申し訳なさそうな顔で上記の科白を言い終えると首を傾げて、彼のチャコールグレーの瞳と眼を合わせる様に見つめる。) 

天下井 良弥

「 っと、そうですね。すみません、一度考え出すとそのことばっかぐるぐる考える悪い癖で 」 
自分の側にきっちりと座り此方の話に耳を傾ける御幸さんは、所作の一つ一つが美しかった。だからこそ、というか、下手な望郷の念に駆られてしまいそうになる自分をさらりと連れ戻してくれた時にはその姿が一層強く見えた。そうだ、今は過去に思いを馳せている暇などない。またしても、勝負の場に身を置いているという自覚が薄れてしまいそうになる。こんなことでは、御幸さんや秋ノ宮さんに迷惑をかけてしまうだけだ。少し申し訳なさそうな眼前の彼にふるり首を振ると、寧ろ感謝を浮かべて頬を掻く。 
「 あの、悩み事っていうにはちょっと辺鄙かもしれないんですけど …… 俺、人前で演奏が出来なくって …… 」 
目の前のキーボードに電源を入れると、ようやく本題を切り出した。相手からしてみれば、一体何を言っているんだと言われそうなしょうもない話。それもそうだろう。他のアーティストたちはといえば、技量がどうだとか、更に精緻化するにはどうするべきだとか、きっとそういう話をしているのだろう。そんなレベル云々以前の話の自分が何故今こうしていることができるのか。わからない。けれど、最初で最後の天使がくれた時間だと思って精一杯やるしかない。そう思いながら、恥を忍んで逃げないようにと彼の瞳に照準を合わせ返す。
「 一応、路上で演奏とかはしていたんです。でも、他の人たちと違って路地裏で一人で好きに弾いてる、って感じで、誰かが真っ向から聞いているっていうのに慣れないんです。それが大人数なら尚更というか …… その所為かは分からないんですけど、どうも緊張しちゃうんすよ 」 
少しの指の震えであっても、誤差のような力の入り具合であっても、彼の音楽性においては誤りになりかねない。ピアニッシモとピアノの違いを表現できない音楽など音楽ではないと言わんばかりの繊細な表現に、この緊張による硬直は天敵とも言える課題だった。